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[ヒストリー] 浪花節でハンバーガーをくるんだ男 ~藤田田~
2005年10月14日 (金) | 編集 |
 詭 藤


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朝鮮戦争による特需景気の中で類まれなる才能を発揮、高級ブランド クリスチャンディオールの代理店契約を獲得し財を成しながら まったく分野違いのハンバーガーチェーン
マクドナルドと組み 開店当初 なかなか成功しない中で「外食はファッションだ!」と豪語し、開き直る藤田田(ふじた でん)
そんな男のヒストリーを年表方式で紹介してみる。


記事:nagaman
1926年 幼年時代

・大正15年 大阪市城東区で5人兄弟の次男として生まれる。
・藤田 田の 名前は クリスチャンであった母親が名づける。
なぜ“田”かというと口の中に十字架が入っているから。
よくしゃべる子で黙らせようと「口」に「×(バツ)」を入れた、という俗説もある。
・幼児期より腕白な子供で周囲に手を焼かすも小・中学校と首席を通す。父の影響で英会話力抜群。
・授業中 隣の席で 教師の似顔絵を書いていた手塚治虫のラクガキを貰う。
・嫌な教師に抗議をして 教師の職を辞めさせる。
・成績は優秀だったが、教師に嫌われていたため内申を失い、一浪して高校に入学。


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高校時代 旧制松江高校入学

・応援団の団長になり弁論術と蛮勇を養う
・義理人情に厚い 無邪気な人間性でクラスリーダー。 学校の人気者になる。
・松江に進駐していたGHQで通訳アルバイトを始める。これがきっかけでアメリカの資本主義の豊かさ合理的・科学的な考え方に目覚める。


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1948年4月
・東大法学部に入学。 GHQで親しくなったユダヤ人軍曹からビジネス哲学を学ぶ。
・雑貨輸入に手を出し 大儲け。 ユダヤ商法の極意を磨き上げる。

1950年・東大三回生 24歳の身で藤田商店を設立。 朝鮮戦争特需景気の中で商才を発揮。
銀座のユダヤ商人」と呼ばれる。
・クリスチャンディオールと代理店契約を結ぶ。
・東京タワーに蝋人形館を開設。


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1969年3月 藤田 田 44歳
・マルチミキサーの行商から成り上がり、米マクドナルドを築いた立志伝中の巨人
 レイ・クロック社長 日本での提携先を探す。
・藤田 ユダヤ人からレイ・クロック社長に会うように進言される。
・1個15セントのジャンクフードに賭けるのはいささか疑問に思うも、レイクロックと意気投合。超強気の契約交渉へ。


豪快!超強気の契約条件


・合併会社の出資比率50/50。 
・経営権&人事権は藤田に属すこと。
・米本社からアドバイスは受けるが 命令は聞かない
・米本社へのロイヤリティは1パーセントしかやらぬ。
・収益は全て日本での再投資に回すこと
・契約期間は30年とし、満期時の再契約に際して選択権は藤田個人にある


※日本はアメリカに戦争で負けて無条件降伏にサインしたが、これはまったくもって逆の立場だ。 戦勝国が敗戦国に一方的に無条件降伏を押し付けるに等しい破格の条件だといえる。 これほど強気であると 返って気持ちいいものがある。


1971年
1月16日 合併契約の調印締結。
5月1日 新橋1丁目住友ビル6階 藤田商店オフィス内に日本マクドナルド設立
記念すべき第1号店は銀座に開店予定と米本社に報告するも米本社からクレーム



※車の発展と共に歩調を合わせ拡大を広げていた米マクドナルド。米マクドナルドはすべて郊外に立てている。都心に店を出すなどもってのほかだった。
しかし藤田曰く、「外来文化というのは その国の中心から入っていかないと普及しない常識を逸脱したものでも、銀座でヒットすれば全国が注目する。一号店はなんとしてでも銀座で開かねばならない。」と豪語。


・藤田、 一号店は茅ヶ崎(神奈川県 鎌倉市の隣)で進行中! 安心して開店セレモニーに光臨されたし!と打電。

本社 社長 レイ・クロックを騙す。 銀座1号店は極秘裏に進行中!


7月18日  第一号店開店二日前
自家用ジェット機で 米マクドナルド社長 レイクロック来日。


レイ・クロック「・・・・茅ヶ崎に み・・みせ みせが 店が ない!」


・一号店は とある事情で 銀座に変更と明かされた レイ・クロック社長。
しかもまだ 銀座一号店はなにも完成していなかった


・ レイ・クロック社長 失望のあまり ホテルオークラの一室に閉じこもる。


この歳にして引きこもり老人になる。


・藤田 タイムリミット39時間で銀座一号店を建設し完成させる。 すべて藤田の計略であった。


・7月20日 火曜日 午前11時 マクドナルド 第一号 銀座店 テープカット。
藤田田 満面の笑み。 レイ・クロック社長 苦笑い


・銀座で開店するも まったく売れず。 日々 赤字に悩む。


翌年11月
・第二号店 代々木店を開店。 これも まったく売れず。出店計画ストップ。


・藤田 考え方を 改める。
「ハンバーガーを売る」から 「ファッションを売る」に転換。


・立ち食い・歩き食いはカッコイイというイメージの浸透をさせるために 博報堂によるマスコミ動員作戦を展開。 マスコミを味方につける。


・マスコミ各社に
「人は12歳までに食べていたものを一生食べる!」
「大衆の2ミリ先をゆく!」
「ハンバーガーの味をわからんやつは ゴリラかチンパンジーだ!」
など 詭弁を振るう藤田は マスコミによって競って報道され 消費者の関心を引きつける。


※マスコミによって変化した消費行動の先にマクドナルドの店舗があるという巧妙な仕掛けであった。 豪快だとしか 言いようが無い。 商品が売れないから 商品を変えるのではなくて、 商品が売れない社会情勢を変えてしまい 商品が売れる社会にしてしまう 藤田田 やってることが豪快すぎるぜ!


・日本マクドナルド 破竹の快進撃を開始する。72年から04年までに4000店舗弱  年間来店者数11億人。 一流の大企業に成長。


・この間にも外国ハンバーバーガー企業が日本に上陸するも、日本マクドナルドの前に崩れ落ちる。


・ 藤田 「外資系ではなく 外技系と呼んでくれ」 
      「マクドナルドは外食業ではない。高速加工商品販売業だ」と豪語。
一切の米本社で構築済みのマニュアル面を廃止し、日本流システムを構築した。
結果強大な推進力を得、日本マクドナルドは今に到る。


藤田 田 曰く


「一強百弱は 世の常、寡占化は資本主義の宿命、勝てば官軍」



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藤田 田 享年78歳
2004年4月21日 心筋梗塞のために亡くなる。
詭弁の魔術師 藤田 田は きっと笑いながら 日本社会を見つめているに違いない。 


記事:nagaman
資料:外食産業を創ったひとびと  「外食産業を創ったひとびと」編集委員会編
 商業界 1890円



オマケ


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こわっ!
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